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2006年02月27日

懐かしい人(その3)

転院してから、先生の状態は安定し、意識もはっきりしてきました。

私はクリニックの同僚専門医達に白紙から先生を見てもらいました。大腸癌は転移していて、余命は長くて半年と言われました。

それから、内科専門医の試験勉強のためにとっていた休暇を毎日先生の病室で過ごしました。 「鎖骨をネックレス骨と呼ぶんだ」とか、風車を使った物理の研究の話、研究中なのでそのモデルを「病室に置いてくれ」と頼まれたり、ハンガリーでドイツ軍に襲われ死にそうになったことや、先生が大切にしていた人たちが死んでしまったとか……とてもプライベートな個人的なことになると秘密主義的だった人がぼそぼそと、いろいろ話してくれました。残念で仕方がなかったのは彼のハンガリー訛りの英語がよく聞き取れなかったことです。

右の腿の附け根に絶え間ないひどい痛みがあり、彼は痛さのあまり「早く死にたい」言います。薔薇が開くように開く痛み。花びらがひとつひとつ明瞭に痛みとして輪郭つけられる薔薇の花を彼は時々話してくれました。

そうして、彼は亡くなりました。連れ出した病院からは訴えると脅されましたが、私の同僚も夫も同情的であり、結果的に何事もなく終わりました。

先生が古美術の蒐集をノーベル・インステチュ―トに遺言されたので、当時の王子の教育係だった伯爵がハワイにそれを受け取りに来られました。その時、先生の親友夫妻と、夫と私は、晩餐にご招待され、着飾って出かけました。伯爵に腕をとられ、カハラヒルトンホテルのリビングのようなところからダイニングに向かって歩いていった、あのときの私の首の上向き加減は今も後頭部と首のプレッシャーとして残っています。まるでおとぎ噺のようなひと時でした。

月日がたち、今は私も先生の年齢になりました。天才。内耳の知識を教えてくれた彼。ずいぶん苦労されたであろう先生の人生。心から懐かしい人の一人です.


投稿者 staff : 12:48

2006年02月25日

懐かしい人(その2)

さて、続きです。医者は他人から自分のやり方に口出しされることを嫌がります。

特にべケージー先生の親友の脳外科医がその病院にいて、そのつながりからべケージー先生はそこに入院したのですから。私は引き受けることを戸惑いましたが、病気の人の、しかも非常にプライドの高い、人に頼めない人の頼みをノーと言えるものか…と思いました。どんなトラブルが待っているか知らないけれどイエスしかないと思い、引き受けたのです。

彼は大腸癌でした。手術をして腎臓の機能と体内の水分・電解質のバランスが変になり、彼の意識は朦朧となっていきました。私の専門分野です。しばらくじれったく思いながら黙っていましたが、先生が下り坂を駆け下り続ける様子と、自分が彼にした約束とのあいだでもがき、とうとうくちばしをはさみました。

しかし、やはり若い担当医は気を悪くしたのみでした。今の私だったらもっと上手く話せたでしょうに……先生の担当外科医と話すのは私の方が恐ろしくて、電話する前に電話機に触れたり手放したり、言うべきことを暗記したり、日頃の医師として仕事をしている私とは思えないほど、うろたえていました。
また、自分の外部にばかり目が行き、なんでこうなってしまうのかを環境のせいにしたり、人のせいにしたり、心理的に説明したりしている頃でしたが、でも、当時もなんだか変な行動をする自分にはうすうす気がついてはいました。

このままでは約束が果たせません。

先生に「ここでは約束を果たせないので、違う病院に連れて行くけれどいいか?」と訊きました。夫の管理下にあった州立病院から連れてきてもいいとの保証を得ていたからです。先生は朦朧とした意識のなかでもちゃんと理解し、「この年寄りをそこまで思っていてくれるのか」と言われ、私は救急車を手配して彼をその病院から連れ出しました。

なんだか大きな医療施設を相手に戦争をしているような悲壮な思いでした。当時の夫のサポートがなかったらできなかったと思います。
(続く)

投稿者 staff : 20:47

2006年02月24日

懐かしい人(その1)

内耳の研究でノーベル賞を受賞したギヨギー・ヴォン・べケージーというハンガリー人の男性がハーバードを引退後、1960年代にハワイで小さな研究室を持ち、一人で研究をされていました。

当時私の夫のつとめていた医大の関係で、私たちは彼と親しくしていました。彼の英語は解りにくく、話をするのはちょっと困難でしたが、私の家庭料理をよく食べにきてくれました。

彼に接していると、天才とはこんなふうなんだ~と感極まる時が時々ありました。あまりにも簡単に、私などただ事実として、しかも日常茶飯事の事実と思うばかりで、そのことの現す意義とか抽象的な要素とか思ってもみなかったことに、彼は深い真実を見出すのです。

すると今まで説明つかなかった、ばらばらに存在していたことが、あっそうだ!と結晶するのです。例えば、腕に生えている毛の毛並みの方向と、内耳の構造と、毛並みが刺激されて揺れると体がどうそれを感じていくのか、とか……。

そんな彼がある日入院しなければならないけれど、先生とうまく話し合いができないので、私に世話を頼むと言ってこられました。入院中うまく行くように頼むという依頼だったのです。

医者だった私だから言いますが、医者は自分が一番と思っています(特に私? あるいはアメリカの医者は特に…かもしれません)。人から自分のやっていることを批判されたくないし、指示されたり監督されることを歓迎しません。特に違う病院に所属する医者がそれをするのは御法度中の御法度と言っていいでしょう。それをしてくれという依頼だったのです。
(続く)

投稿者 staff : 20:46

2006年02月22日

「花日和」

今日はある雑誌の取材を受けました。
読者からの人生相談に私がお答えするという企画で、
編集長、担当者、ライター、撮影のためのカメラマンとアシスタントも
合わせて5人の「若い人達」がみえました。

よく「最近の若い人達は…」と言うでしょう。
とんでもない!私がお会いする「若い人達」は素晴らしい人ばかりです。
今日も楽しかったですよ。男性も女性も素敵な方ばかりでした。

考えてみたら、今日会ったカメラのアシスタントさんと私とは
50歳の年齢差があるんです。
話していて年齢差はまったく感じませんでしたけれど。
若くてもトシ取っても、心は同じです。素晴らしい人は素晴らしいんです。

ただ、みんな「私より身体が若いな~」とは思いました(笑)

*雑誌は「花日和」という無料のPR誌です。
4月後半配布の号からずっと私の相談ページが掲載される予定です。
全国の書店で毎月配っているそうですから、機会がありましたらどうぞご覧下さい。

投稿者 staff : 21:15

2006年02月20日

ウソをとがめるより想像力を大切に

(先日の質問への答えです)

――現実と空想の世界の区別がつかない……大人になってもそれが出来ない創造的な人もいますね。考えることも、ある意味、ウソを言っているようなものです。ありもしないことをああでもない、こうでもないと言ってみることですから。

創造力もその類のものです。でも、ほとんどの子供は、大きくなる過程で区別がついてきます。それをウソだからだめ、と決めつけてしまうと自分で考えない人になる可能性もあります。
また、せっかくの想像力も創造力も抑圧してしまうことにもなりかねません。 「あなたが言っているのは、お話なの? それとも実際のことなの?」と訊いてみてはどうでしょう? そしてこんなふうに話してみてはいかがでしょう?

お話は素晴らしいし、お話はお話、実際のことは実際のこととわかっていればいいのよ。素晴らしいお話のケーキはいくら作っても食べられないけど、思いっきり「お話のケーキ」をつくるのは楽しいものね。人に話すとき、これは「お話のケーキ」だと話すといいわよ、あなたの創造力(想像力)は素晴らしいわね。ときどきお話聞いてくれない人がいるかもしれないけれど、そうしたら家で話してね。

また、作り話ごっこを子供と一緒にやって、実際にある話をして、区別をつける作業を一緒にやってみてはどうでしょう? ほんの数分で出来ますよ。

投稿者 staff : 17:29

2006年02月17日

「お話と現実が区別できなくてウソを…」

今日も子育て相談のお話です。やはり子どもがウソをつくのを気にしているお母さんから。

「うちの子は6才の女の子です。想像がどんどん一人歩きするのか、ウソをあたかも本当のことのように話すことが頻繁にあるんです。

たとえば造語を作ってそれを皆が知っているようにふるまったり、虫や鳥の名前を自分で考え出し『これは○○鳥って言うんだって今日さきちゃん(お友達の名前)が言ってたよ』と言ってみたり、『このゲームは○○○って言って、幼稚園でやってるんだ。こうして、ああするとこうしなきゃいけない…』などと彼女の作ったとしか思えないルールを並べ挙げます。

『まるで赤毛のアンのよう』とおかしくなるのですが、あまりほら吹きが当り前になると、友達の信頼を失うことになりそうでいかがなものかと思っています。
また、先生やお友達のお母さんから注意を受けたことを子供に確認すると、『忘れた』『覚えてない』などと政治家のような(笑)ことを言います。あまりひどいウソの場合は『オオカミと少年』の話を例に挙げたり、次の段階では『わかった。でも神様は見てるからね』と答え、最終的には『ウソをつくと閻魔様(えんま)に舌をぬかれちゃうからね!』と脅したりしてしまいます。」

――さあ、どうしたらいいでしょう?あなたならどうしますか?(続く)

投稿者 staff : 17:27

2006年02月15日

「子どものウソに腹が立ちます…」

(昨日の続きです)

「外ではとても良い子なんです。私も少しは聞いてやるのですが、精神的にもたなくなります。親の私がいけないのだろうかと反省もしますが、ストレスもたまります。どうすれば良いでしょうか?」

――いい子に育てようと本当に一生懸命、真面目にやってこられたのですね。その自分をほめ、ウソをつく子供と、それを止めさせられない自分をちょっと許して、ウソをついても、あなたはいい子!と、子供の存在自体を思いっきり愛し、その愛を表現してみてはどうでしょう?
そしてウソをつかなければならないような質問はしばらくやめてみたらどうでしょう? 子ども達や家族の生死に関わること以外しばらく質問しないようにするんです。たとえば宿題がやってなくても生死に関わることではないですね。だったら「宿題はやったの?」と訊くのを止める(笑) 宿題をやっていかないと学校で困るんだと本人が発見するまで、愛をもって見守ることにしてみたらどうでしょうか?
ウソを言うことが質問する前からわかっていたら、その質問はしないこと。質問して腹を立てる代わりに、「宿題を一緒にやろう」と声をかけるとか、何か工夫してみてください。できそうですか?

投稿者 staff : 09:26

2006年02月14日

「子どもがウソをつくんです」

先日こんな相談を受けました。以下はお答えした私との対話です。

「8歳と11歳の男の子の母親です。子どもがウソをつくんです。内容はたわいないことばかりなのですが、証拠がないと絶対にウソを認めようとしません。たとえば隠れてお菓子を食べるとか、宿題や明日の準備をやっていないのにやったと言ったり、何かを傷つけたとか、汚したとか……失敗したことも二人の男の子の姉を含め三人とも自分がやったと言いません。」

――まず、これらは子供にはあたりまえのことではないでしょうか? あなたも何気なく自分ではないと言った事はあるのでは(笑)

「ええ、でも、私は親として何度も『自分のやったことは自分で責任をとりなさい』と話しているんです。
でも、何度も同じウソをつくんです。もう、これは恐怖心や痛みで、絶対にいけないと覚えさせないといけないと思い、お尻をたたいています。8歳の子は暗い山道で車から降ろしました。ウソをつく子はいらないといいました。誕生日のプレゼントも返させました。11歳の子は言葉の解釈の仕方が違ったなどと口でごまかそうとします。この子は私に何時間でも文句を言い続けるんです。」

――具体的にどんなことを言うのでしょう? 文句を言うのとウソをつくこととどう関係があるのでしょう? 
また、暗い道でとか、プレゼントを返すとか、それがウソをついた事の罰だとすると、子ども達は愛されてはいないと思ってしまうかもしれませんね。そうすると余計にウソが増えてくると思います。(注:なぜそうなるかは、ちょっとややこしいので、ここには書きませんが)
(続く)

投稿者 staff : 17:24

2006年02月10日

聖ヴァレンタインの日が近づいて来ました

フランクシナトラが歌うMy Funny Valentineを聴いたことのない人には是非お勧めです。
Happy Valentine, みなさんに腕いっぱいの、心いっぱいの愛をおくりま~す!

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投稿者 staff : 16:15

2006年02月06日

私の仕事

私は、特にスピリチュアルな家庭に育ったわけでもなく、それに興味を持っていたわけでもありません。

医者になるべく夢中で勉強し、それなりの成果を勝ち取ってきた普通の人間です。医者ですから、多少は体と心に通じているかもしれませんが、スピリチュアリティーに関して専門家として話せるわけではありません。

ただ、日本文化の中で日本語をもって23歳まで過ごし、その50代までアメリカで、教育を受け、科学者としてまた医者として仕事をし、結婚生活を送ったバイリンガル・バイカルチャーの人間です。
また世界中で「人育て」のセミナーをリードする上で、多数の異なった文化に住む人間に関わってきました。延べ10万人に近い日本人ともセミナー会場で、また多数の人々と会場を出てからも親密に関わってきました。

この経験から、自分なりの観察をして思うのです。
今、日本人に必要なのはSQである、と。

投稿者 staff : 14:04

2006年02月03日

日本人にとってのSQとは?(3)

スピリット=幽玄の世界。
能が、死に人の怨霊や不思議で象徴する幽玄の世界。能の世界を意義づけるその意義の出所。それがSQの分野だと言えないでしょうか?

あの幽玄の世界にふれた時、能を超え、怨霊を超え、ドラマを超え、ただあの感じだけを、感じたら、あの感じを理由なく、説明なく、感じたらそれはSQの世界にふれているのだと言えるのではないでしょうか?

あの感じは、人として自分の源に触れさせてくれるでしょう。
自分は誰であるのか、何であるのか。
この体験がもてないとき、何かが足りないけれど何なのかわからず、この真実への憧れを満たそうとするあまり、真実からかけ離れた「宗教」と呼ばれる世界に過度に没頭したり、または快楽と財の欲望を満たそうとしたり、仕事過剰、過食などに走り、空しさを満たそうとして満たされないことを続けるのでしょう。

日本から、日本人から消えてしまった一番大切な“何か”がこのSQだと思います。
環境も毎日も物の世界になってしまいました。物に埋没し、IQだけで生きようとする人ばかりが目立つ現代に、あらためて言葉でSQを確認し合い、存在させ、発展させていくことが必要だと思います。 
(続く)

投稿者 staff : 21:03

2006年02月01日

日本人にとってのSQとは?(2)

日本人のSQは、しかし、大変危うい、微妙な面を持っています。

SQは、目に見えない繊細な世界、象徴、シンボル、によってのみ目に見え出してくる世界です。
.象徴が失われ、言動の意義が失われれば存在しなくなる世界ともいえます。
(日本は特に古えから、ご利益(りやく)や、たたりと言った現世的事柄に注目して来たわけですから。)

SQは感じる世界です。感情を、情緒を感じるのではありません。存在そのものが感じられなければ存在しない世界です。
.
日本のように言葉としてSQが語られないと、感じさせてくれる象徴や環境がなくなれば感じなくなり、SQは存在しなくなってしまいます。すると、物に支配された、この世だけの世界に住むことになります。

人間自身が単なる物になってしまう。肉体とマインド以外の自分にはふれる機会もなくなってしまう。機械のなかで、人間である自分は何でも出来て、宇宙をも支配できる錯覚に陥ります。月にも行けたではないか、木星の探検も無人機械を作ってやれるではないか。……。

SQが低くなると、自分より大きな存在を感じなくなります。感情が干からび、EQも低迷し、IQだけのロボット人間のようになってしまうのです。
(続く)

投稿者 staff : 19:58